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大八木規夫氏の体験談

新潟地震の緊急調査のこと

 それは,突然の「めまい」で始まった.
 そのとき,私(当時,地表変動防災研究室研究員)は上司の藤堂定室長(当時,同室長;後に仙台市助役)の机の前に立っていた.まさに午後の打合せを始めようとしていた時であった.

「あ,地震だ」と室長.

 これが1964年6月16日13時01分過ぎ,粟島沖に発生した新潟地震のS波が東京都心に到達した第1波であった.やがて,新潟市を中心に大きな被害が発生しているという情報が集まり,十人そこそこの全所員は所長室に集合して国立防災科学技術センター((独)防災科学技術研究所の前身)としての対応を検討したのである.
 なにしろ,当センター発足2年目にして初めての大災害であり,また,私を含め新入所員5人にとって初めての大事件であった.そうして,おおいに張り切っていたのを思い出す.
 そのとき決まったことは,空中写真撮影を行なうことと,災害の緊急実態調査をすることの2点であったと記憶している.空中写真撮影を航空測量会社に発注するためには撮影範囲や縮尺(撮影高度も含め)を決めなければならない.そのための調査を現地の緊急実態調査とからめて実施することとなった.

 当所業務の一つの柱として災害直後の状態を客観的に記録するため,空中写真撮影と保存,災害の調査研究や復興計画のためにこれを提供することが計画されていた.現在でこそ,大きな災害があると,国土地理院や航空測量会社が自主的に災害現地の空中写真撮影を行なっているが,当時はほとんど行なわれておらず,例えば,1948年の福井地震による災害地の空中写真は,敗戦直後の混乱期でもあり,米軍撮影のものしかなかったのである.
 現地の調査をするにしても,災害地の状況はほとんど分からない.今日のように鉄道や道路の状況が逐一,テレビやラジオで報道されているわけではないし,ましてや,宿泊施設が利用出来るかどうかは全く分からない.
 そこで,先遣隊として新潟出身の福井((雪害防災研究室室長,この年の12月に長岡雪害実験研究所が開設するまでは銀座の本所に在勤)と木村(同研究室)研究員の2名が派遣されることとなり,地震当日の16日夜に出発した.
 翌日,福井室長からの連絡によって,上越線はなんとか新潟まで到達でき,また,宿泊所も利用可能なことが明らかになり.複数の班に分かれて空中写真撮影範囲を決める現地調査を開始することとなった.藤堂室長と私は,村上市を中心とする新潟県北部を担当することとなった.

 震災の翌々日,我々は上野発新潟方面行きの夜行列車に乗った.いただいたばかりの初ボーナスをポケットにねじ込んで.電気機関車が引っぱる普通夜行列車は超満員で,座る場所などある筈もない.私達も他の乗客とともに,通路に新聞紙を敷いて膝を抱えて座った.車内には実家の状態を心配して帰省する子供づれの女性などのほかに体格のいい大学生達のグループも乗っていた.我々が持参した食べ物を分けてあげたら,「ゴッツアンデス」と大声で礼を言った.学生達は体育会系の連中のようであった.彼らは被災地の救援に行くということであった.災害時のボランテイアは新潟地震のとき,すでに始まっていたのである.

 翌朝,我々は新津駅で下車し,村上方面行きの羽越本線の普通列車に乗った.蒸気機関車が引く列車は徐行しながらもなんとか運行した.しかし,あちこちの駅でプラットホームが波打って,壊れているのを目撃した.藤堂室長は建設省(現,国交省)から出向されたよしみで,建設省の村上土木事務所の宿泊施設と車両の提供を受けることが出来た.同所の方々に心から感謝申し上げたい.
 村上市の市街地では大きな被害は目立たなかったが,三面川に近い沖積地に建つ家屋は全壊していた.この三面川の右岸斜面には大小の崩壊が多く確認できた.また,奥羽山地へ入る数本の河川沿いでは,崩壊発生の範囲は山地の奥までは及んでいないことを確認した.宿泊地の村上市内ではしばしば大きな余震にあったが,その多くは日本海側から震動が伝わってくるのを体験した.
 村上周辺の調査の延長として,村上市から新潟市へかけての海岸線に沿う砂丘や内陸側沖積地の調査も行なうこととなり,ほぼ海岸線沿いの道路にそって被害状況を調査した.村上市岩船付近の海岸では,海面から3~4m高い台地の上に何艘もの漁船が並んで鎮座しているのが不思議であった.わざわざ,こんな所にこれらの舟を誰がどうやって上げたのだろう,と思った.これは津波の仕業であったが,半世紀後に津波の巨大な力を見せつけられようとは思いもつかなかったのである.
 岩船の南,荒川町塩谷では砂丘頂部に平行な道路はあまり痛んではいなかったが,道路から内陸側に立ち並ぶ住宅がほとんど全壊ないし半壊の被害状況であった.その上,砂丘と沖積地との境界部分では幅10m,奥行数mほどの地すべりが多数認められた.すなわち「砂丘の地すべり」である.おそらく,住宅の被害とこの砂丘地すべりとは砂丘堆積物内部の変形によって発生した,より大きな斜面変動を暗示するものかも知れない.現在の知識で見直す必要があると考えている.実際に1983年の日本海中部地震によって,能代市南方では砂丘の地すべり(スプレッドタイプ)が発生しているのである.

 新潟市の市街地に入ると被害の様相は一変して,液状化災害というべき状況であった.昭和大橋の橋桁のドミノのような落下,新潟駅の汚水槽の浮き上がり,白山地区の陸上競技場は液状化によってフィールドがぼこぼこ,特定の範囲の住宅が大きな被害を受けていること,横倒しになったRC市営住宅では住民が,倒れた建物の傾いた外壁を伝って,窓から出入りしている様子が印象に残る.

 緊急調査の成果を得て,空中写真撮影が実施され,被害状況図,とくに建造物の傾動被害等の実態が図化検証されたのであった. 

追記:1964年は災害特異年であった.新潟地震のちょうど一月後の7月16日には富山県で胡桃地すべりが幅500m,奥行2kmにわたって大規模に滑動,事前の避難によって幸い死者はなかったが,その3日後の7月19日には島根県の加茂大東地域で豪雨災害があり109名が崖崩れ,山くずれなどによって亡くなったのである.なお,新潟地震では26名が亡くなっている.これらの災害によって失われた方々のご冥福を祈り申し上げたい.

大八木 規夫(おおやぎ のりお)氏プロフィール

 1932年長崎市に生まれ。1958年に広島大学理学部地学科を卒業。1964年博士号取得。同年,科学技術庁に新設間もない国立防災科学技術センター(現在の(独)防災科学技術研究所)に地表変動防災研究室研究員として入所。以来,地すべりの研究に従事した。1979年同研究室室長となり、空中写真判読に基づく地すべり地形分布図の作成を継続。1988年から第3研究部部長,防災総合研究部部長を務めるとともに,地すべり学会,応用地質学会,地形学連合などの委員として,また,国際地すべり研究会議(International Conference and Field Workshop on Landslides:ICFL)の創始者の一人としてその推進に尽力。  
2002年には「地すべり構造の研究」により地すべり学会論文賞を受賞。2003年勲四等瑞宝章を叙勲。論文,著書多数。